「ワークショップ批判」からの研修批判
ワークショップは、参加者をまず日常の世界から引き離し、一種の隔離された状態におきます。通常は一泊二日のかなりつめこまれたスケジュールが用意され、朝早くから夜遅くまで、食事の時間もふくめて同じメンバーで過ごします。まったく新しい発想や考えかたに触れた受講者は、驚きとともにそれらを体験的に我がものにしていくようになります。そして二日間でなにかしらの壁をこえ、新しい自分に生まれかわったことを実感するのです。
ワークショップは非日常の体験であるからこそ、そこに自己変革のおおきな可能性を秘めているのですが、実は落とし穴もおなじところにあります。しばしば見られるのは、ワークショップを渡り歩くある種の中毒者の存在です。しばらく参加しないでいるとたまらなく参加したくなる、参加しているほかの人間をつい羨んでしまうといった、ワークショップといわば依存関係に陥っている人間をよく見かけます。
研修会社のアンケートにはだいたい「学んだ知識をいつ使いますか」といった問いがありますが、ワークショップ形式だけでなく、座学や実機演習中心の研修でも、「使う予定はない」といった回答がとても多いです。予定もないのに、9時17時、何万円も払って研修を受けます。
半期に1回ほどの研修受講が「人材育成施策」として義務付けられていたり、研修会社のカタログ (的なリスト) の中であれば何を受けてもよいような会社もあり、特に必要性も目的もなく受講している (のではないかと感じる) 人も多いです。
実際、「使わない学び」のほうが楽しいんですよね。何かトレンドワードを聞いて頷いてメモしたり、絶対に失敗しない (よう作られた) 演習用プログラムをいじって「成功体験」したり。しかも平日に業務を抜けて会社のお金で。でも、アンケートには「使う機会はない」と。
(全員ではもちろんないですが) そういった受講者が増えると、研修はより簡単に、受講者がつまずいてストレスを感じないように、試行錯誤の余地がないコピペの実習になり、知識がないとできないはずのディスカッションが、思い付きを出し合うお喋りの場になります。対応する講師も、アンケートにネガティブなことを書かれたくないので、優しく、手取り足取り、成長につながらないくらい肯定し、サポートします。
(主観でしかないですが) 大企業のベテランほどそういった「使わない学び」を求めて何度も研修を受ける方が多い印象です。実際に、半年前に受けたトレンド領域の研修を「何か更新されてるかもしれないから」とまた受けていた方もいました。…いや、そのトレンドの変化を自ら調べるための土台を身に着ける研修なんですけど、という。
加えて、近年のコロナ禍では、外出すること自体に「ハレ」(言い過ぎですけど) の要素が加わります。テレワーク続きの自宅を出て、ファシリティの整った研修会社の会場で、業務を気にせずゆったりと研修を受ける。もはや研修は「レジャー」のひとつになっています。私が実際に聞いた例では、名古屋の研修施設に京都から受講に来た方が、「大阪はオフィスと近くて、研修が終わったら戻らないといけない。東京はサテライトオフィスがあるからやっぱり行かないといけないから、いつも泊りでゆっくりできる名古屋を選んでいる」と仰っていました。
冒頭の記事でも以下のようなことが書かれています。
同様の週末のワークショップに参加し続けて、特別の瞬間を追い求めることになります。
ここでは当初の手段であったものが目的そのものに変化しています。日常の現実にていねいに、忍耐強く向きあって生きることより、安易に非日常を追い求めているといえるでしょう。ワークショップであたたかく、気持のよい思いをすることは貴重なことかもしれません。また同じ思いを抱いた仲間と語りあうこともすばらしい体験だとは思います。
しかしワークショップは、ひとつの出発点なのです。それはゴールではなく、学びやスキルアップの手段であり方法にすぎません。
本来、業務上の課題を解決するために必要な知識を身に着けるための研修が、「研修に参加して楽しく過ごす」ことが目的になっています。ただ、実際問題、そういった受講者が大企業にはたくさんいて、その人たち (の所属企業) が払う高額な受講料で研修会社の経営は成り立っていますし、私自身の収入にもつながっています。
その意味では、受講者はレジャーを楽しめて、講師は難しくないことをペラペラ喋っていればお金になって、企業の人事もこんなに研修予算を割いて人材育成に力を入れているんだとアピールできて、「三方良し」と言えばそうなんですが、外 (社会) から見た時にそれはどうなのかと。
そういうことを長年悶々と考えての、独立であったり、「地域」を意識した事業展開 (計画) であったりするのです。…特にオチはありません。図は、以前作った、「研修会社と教育ベンチャーのターゲットの違い」をあらわす (きわめて主観的な) ものです。